布団の中でぼーっとしているだけ。
テレビも見ていない、本も読んでいない、スマホも触っていない。
何もしていない時間がただ過ぎていくと、
決まって頭の中にこんな言葉が浮かんできます。
「なにやってるんだろう、私」
“何かをしていないといけない”という思い込み
社会人として、あるいは人間として、「常に何かをしているのが普通」と信じ込んでいた時期がありました。
活動=価値、成果=存在意義。
そうやって、知らず知らずのうちに“動いていない自分”を軽視するようになっていたのかもしれません。
休んでいても、心はずっと働いていた
私はあるとき、気づきました。
「何もしていない」ように見える時間にも、
心の中ではたくさんのことを考えていた。
思い出したくないことを処理していたり、
誰にも話せない感情を抱えていたり。
それは、「静かに見える戦い」だった。
そしてそれは、「何もしなかった」のではなく、「休息という名の作業中」だったんです。
罪悪感が湧いたときに唱えている言葉
何もしていないことに罪悪感を覚えたとき、私はこう自分に言うようにしています。
「今は“何もしない”という仕事をしてる」
「何もしていないように見える時間が、次に動くためのガソリンになる」
「この空白は、次に私が生きるために必要な“余白”」
言葉の力は大きいです。
頭ではわかっていても、気持ちがついてこないとき、優しい言葉が支えになります。
“何もしない時間”を、堂々と持てる人でありたい
ずっと働き続ける機械じゃない。
回復するための“止まり時間”があって当然。
そして、ただ何もせずにいる時間にも、価値はある。
私は、そういう時間を「無駄」と切り捨てるのではなく、
「豊かに生きるための静かなプロセス」として受け止めるようにしています。
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